売れている順番
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歴史とは何か (岩波新書)
(E.H. Carr)
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価格:¥ 819(税込)
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【俺達の評価】 4.0点(5点満点)
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【俺達はこんな本も買っている】 新版 歴史のための弁明 -歴史家の仕事ー |
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【俺達のコメント】
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01.
大学では西洋史を専攻した私。史学科の課題図書の筆頭はこのE.H.カー『歴史とは何か』だった。そしてカーの決めゼリフは「歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話である。」(p. 40)
でもこれだけでは、カーの真意は伝わらないように思うので、私の言葉でカーの代弁をしてみたいと思う。
一般的には、歴史的な事実というと、考古学や日本史の遺跡発掘のイメージで「客観的事実」を宝探しの宝を探すように「発見」し、それを記述したら歴史が出来上がり、という感じがするのだが、そうではない、とカーは言いたいのである。そして「主観的」という言葉が何か悪いものであるかのように考えられがちだが、そうではなく、歴史家の「判断」があって初めて「歴史的な事実」として認められるのだということである。そうすると主観的な判断が入るので「客観的事実はない」「不変の真理はない」と嘆いたり、怒ったり、ぐれたり、すねたりしてしまう人がなぜがいる。それが学問的態度ではない、って言うことなのだ。私たちができることは、限りなく近づこうという態度で臨むことだけだ。そしてあくまでも仮説として設定することに意味があるのである。「客観的事実」を設定すること、「不変の真理」を設定すること、それに意義がある。有るかどうかは問題ではない。(愛も神様もそういう存在だと私は思っています。)
画家の安野光雅は数学者で水道方式で有名な教育家でもある遠山啓と対談し、以下のように語っている。「主観」という言葉のひびきが悪いものであるかのような誤解をとくこと。これが科学教育の第一歩だと思います。
●安野:ひとつの目的に到達するための一種の方向感覚のようなものはありますか。(中略)
●遠山:構想力といいますか、これは数学ばかりでなく、科学ぜんぶがそうだと思います。科学をあまり知らない人は、科学というのはわれわれの世界を写真みたいに写す学問だというように考えている。そういう人が多いのですが、実際は写真みたいな写し方ではない。むしろ、絵に近いです。不必要なものは大胆に捨象してしまう。重点的な点だけつかみだして見ていくんですね。だから、科学的な精神というのは、なにかおのれをむなしくして、写真のカメラみたいにならなければいけないように考えている人が多いようですが、実際は、そうではない。非常に主観がはいるわけです。
『空想茶房』(平凡社1986年 <初出> 美術と数学との対話『遠山啓との対話 教育の蘇生を求めて』太郎次郎社1978年)
2002-11-9記す
02.
歴史哲学の古典的名著。
歴史事実、歴史叙述、法則、進歩などなど、歴史哲学の重要な問題が簡潔にまとめられている。
歴史哲学の最初の一冊にも薦められる本であろう。
以下概要
歴史は客観的に与えられたものではない。
なぜなら、歴史家は無数にある過去の事実の中から、何個かの事実を選び出して叙述するものだから。
また、おのおのの事実同士をどのような関係で結びつけるかも、歴史家の主観や現在の価値観が入り込むものである。
しかし、歴史は好き勝手に作っていいものではない。歴史家はやはり過去の事実にもとづかなければいけない。
だから「歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話なのであります」(p40)
歴史家の中には、歴史事実をすべて個人の力に帰してしまうものと、すべて歴史の流れに帰してしまうものとある。
しかし、そのどちらもが誤りである。歴史は、その両方によって動かされているのだから。
歴史は科学であり、歴史家は史実という特殊的事例から一般的事例を引き出し、現在の我々に警告や教訓を与えていくものである。
歴史事実の因果関係もまた、そのような地平において設定される。
歴史の外側に完璧な未来や絶対的法則を設定するのは誤りだが、歴史をカオスとして捉えるのも誤りであり、我々は歴史の教訓を学び、未来へと生かすべきなのだ。
上記したように総じてよく出来た書である。
しかし、歴史をあそこまで科学にしてしまうのには疑問も残る。
確かに歴史を科学として機能させることは出来るし、そういう側面も歴史は有しているが、それだけが歴史ではないように思われる。
我々が歴史の本を読んで楽しんだりするのは、過去から教訓を学んで未来へ生かすという目的だけだとは到底思えない。
歴史には、そうした科学以上の深みがある。
そこら辺が、本書ではかけてしまっているように思えた。
なお、訳については、確かにときどき変な文章はあった。
例えば「第二点は、歴史は、なぜ個人が「彼ら自身の気持ちから見て、このように行動したのか」を研究する、というのですが、一見したところ、これはひどく異様に思われますけれども、私の感じでは、他の敏感な人々と同様に、ウェジウッド女史もぞ文が説教していることを自分では実行していないようです。」(p67)は、わかるといえばわかるのだが、やはり読みにくい文章だと思う。
しかし、こうした文章はそんなに多くはなく、訳で困ったりするようなことはほとんどなかった。
なので、訳の問題はそこまで気にしなくてもいいように思われる。
03.
本書は「歴史学」は如何なるものかについての論考である。
歴史学研究の基礎となる名著は本書以外にもあるが、
本書は多角的な視点で史実や研究方法及び史料批判の方法、
そして思想・哲学分野も含まれており、
歴史研究者を目指す者や教職課程で歴史学を学ぶ学生は、
必読の書と言えるであろう。
04.
歴史・宗教・民族。これらはすべて琴線に素手で触れてしまう危うさを秘めているため、どうしても扱いにくいと思うのは、小生だけではあるまい。ことに「歴史」という言葉を目にする時、その意味は、「事実」、「まつわる感情」、「歴史という名の履歴の見方」等々、完全にとは言わぬまでも、分割すべきものが、ないまぜとなっている気がする。本書は、小生が示したもののうち、「歴史という名の履歴の見方」つまり「歴史哲学」について再考を促す書物である。
著者E・H・カーは、1962年の本作出版時、トリニティ・カレッジのフェローであった。この著作はケンブリッジで1961年に行われた連続講演を基に仕立て上げられたもので、とても読みやすく、問題点がよく分かり、また原注も丁寧である。
著者のスタンス(視点)は、あくまで冷静・穏健でありながら厳しい。それは『歴史を研究する前に、歴史家を研究してください』そのためには『歴史家の歴史的および社会的環境を研究して下さい』という主張に現れている。つまり、歴史は、歴史家を通じて届けられる『社会的産物』(3点とも同書p61より)であることに注意せよ、という事で、まさにこの点を意識しつつ、目次に掲げられた6項目について述べているのである。
歴史哲学というと、へ―ゲルなどに見られる「史観」という看板のもとに、ややもすると、強引な押し売りが目に付くが、本書は、たとえそのような事が後に明らかになったと仮定しても、極めて地に足のついた秀作であると、小生は感じた。
よって推薦したい。
なお現代においてのスタンスは、『岩波講座 世界歴史 第一巻』に手際よくまとめられているので、こちらも参考になる。
05.
「歴史とは何か」と素朴な疑問を持った人が始めに読むといいと思います。これからも繰り返し読むべき古典です。
歴史は解釈するもので、進歩するもので、科学であり、歴史家が作り出すもので、過去と未来を結合するもので、等であり、過去の客観的な事実と法則に基づいて説明され、未来を取り扱わないものではない。と記されている。
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